独立FPの独白ブログ

この世界を少しでも美しい姿で後世に引き継ぎたい!

博多→深川→池ノ上

博多で生まれた私が父の転勤で東京に移ったのは2~3歳の頃と思われます。転居先は深川にある父の会社の社宅であったようだが、その社宅住まいを私がとても嫌がったために早々に引っ越したのだと、以前母から聞きました。しかし本当は、母が希望した引っ越しを実現するために私を利用したのではないだろうか・・・と今は思っております。これも後で聞いたことだが、その家(多分アパート)は川沿いにあり、窓から見下ろせる川には材木が沢山浮かんでいたようです。母がその環境を嫌ったのだろうと容易に推測されるし、第一、2、3歳のガキが「僕、このお家は嫌だよお」なんてはたして言うだろうか???
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多分こんな感じだったと思う昔の深川
<(「シニアコム」さんから借用)

さて念願の引っ越し叶っての新らしい住まいは京王井の頭線の「池之上」駅の徒歩圏内でありました。(下北沢の隣の地味な駅)
父は鹿児島の実家の援助もあって古い戸建て住宅を買ったのでした。幼児の私が自宅から(多分)歩いて通ったのは淡島幼稚園でした。この幼稚園はお寺の境内にあったとの記憶があり、調べてみるとその通りで今も同じ場所で経営されているようです。(老舗です!)
ここでの同級生(?)の中にNHKの有名なアナウンサー(Y氏・当時多分「ジェスチャー」の司会だった)のご子息がいて、ご自宅に遊びに行ったりしたものでした。確か近所にNHKの社宅があったと記憶しています。(かなり懐かしい・・・)


その後、池之上駅のすぐそばの「池之上小学校」に2年生の1学期まで通っていましたが、覚えているのは「水泳の授業は赤いふんどし着用だった」ことと、給食のミルクが苦手だったことくらいです。(肝油は嫌いじゃなかったけど)
5,6歳くらいの記憶というのはかなりあいまいなものですが、数年前にたまたま仕事でこの辺りを通った折に、小学校や幼稚園や自宅が建っていた付近を楽しく散策したものでした。自宅前の通りで自転車の練習をしたとか、夏に氷屋さんのリアカーが通っていたこととか・・・・。
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ご縁があって調布市仙川の桐朋小学校編入させてもらったのは2年生の2学期でした。それに伴い仙川駅近くの住宅地に引っ越して以来、私は東京の西側に住み続けることとなり、いまはすっかり多摩人間となっている私であります。
東京での自宅変遷は深川→池ノ上→仙川→西永福1→西永福2・・・結婚後は独立して国立市に移り住み、市内で4回引っ越しをして今に至ります。多摩地区市民となってからの話はまた別途ということになりますが、12年間勤務した会社が東京駅だったので、東京駅か上野駅あたりが私にとっての最東端という感じで、すっかり西の人間なのであります。でも桐朋小学校では4年半いつも「東組」だったな。関係ないか・・。


ところで、私のブログを時々見てくださる希少な方々にちょっと言い訳をしておきます。
「博多生まれ」から始まったいくつかのブログはなんとなく「半生記」のような内容になっています。実は「老齢年金受給権者」となって以来、人生の備忘録的なものを書いておこうと思いついたものです。そんなものは誰の役にも立たないのは明白だが、ひょっとすると「懐かしい昭和の雰囲気」とか「バブル時代の浮かれ気分」とか「昭和・平成・令和」の日本の変化(または不変の性癖)について、同年代の方にとってご自分の歴史を思い出すきっかけくらいにはなるかもな・・・というような気持で書き始めたものです。
そもそも「ブログ」の語源は「ウエブ上の記録」なのであって必ずしも読者を想定する必要はなく、単に自分の記録、つまり日記みたいでも構わないのだ。お金貰ってないし!!・・面白くなくても文句言われる筋ではない・・・という精神で時々書いてまいります。私が死んだあとで、ひょっとすると息子たちは読むかも知れないから、少し長めの「遺書」になるかも知れないな・・・・。まだ小学生の私です。