独立FPの独白ブログ

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「頭が悪い」とはどういうことか

久々にちゃんと読書をしたので書き留めておきます。
姫野カオルコ著「彼女は頭が悪いから」文春文庫です。
なにしろ自分でも驚いたことに、544頁もある長編小説(私のとって)をたった2日あまり(55時間)で読了するなどは「遅読」の私としては超異例の出来事なのであります。もともとの遅読傾向に加えて加齢と共に進む「視力及び集中力の低下」のため、小説が読めない時期が長く続いている昨今の私は、星新一さんのショート・ショート(ボッコちゃんとか)ですら、2,3話しか読み進めない残念な日々だったのですから、ホントにびっくりです。

読み始めからいきなり引き込まれ、先が気になって目が離せなくなったこの小説のどこがそんなに面白かったのか??・・いいえ、この小説は決して面白いとは言い難いのです。「面白い」の定義は人それぞれですが、概ねおかしくて笑える、楽しくてウキウキする、展開にワクワクする、スリリングでドキドキする、感動に涙する、なるほどと感心する、などでありましょう。「喜・怒・哀・楽」の表現でいえば「喜・哀・楽+驚」が中心ではないかと思います。「怒」が中心になる読み物というのは、告発ドキュメントとか、政治批判などならあり得ても、エンターテインメント系小説にはあまりないように思います。しかしこの小説は時折「クスッ」とする場面があるものの、それは作者が登場人物に関して「スポーンと言い放つ」身もふたもない描写・表現がおかしいだけだ。ドラマの展開としては初めから終わりまで、作者自身の文庫本あとがきにもあるように、なんとも嫌な(いやあ~な)感じに満ちています。しかし、ところが、どうした訳か、私はこの物語にのっけからどうしようもなく引き込まれ、徹夜こそしないものの、飲み食いと仕事と生きるためにする動作以外の一切に優先して読まざるを得なかったのです。ああ、疲れた。でも読んでよかった。もう一度読むのはかなり躊躇するけれど、心の奥にドカッと座し続けそうな大作でありました。


さてここからは、この小説のひとつのテーマであるところの「頭の良い人・悪い人」の話になります。
かねてから私は「頭が良い」とは「お勉強ができる」とは別次元であるはずと強く思っていましたが、実際世間ではあの子は頭いいねという時の頭とは、テストで高得点を取る脳力を発揮する頭(脳みそ)を指すことが多いでしょう。
私は小学校2年で私立校に編入学したあと、大学入学試験に至るまで落第したことがありません。それはお勉強ができたわけではなく、小中高一貫校、いわゆるエスカレーターだったために入試での挫折を味わったことが無かっただけのことです。授業に関しては面白いと思った学科は数えるほどで(生物・現国・世界史くらいかな)、学科というよりも「担当の先生が好き、話が面白い」といったレベルでした。のめりこむように勉強したことも、深堀したくて専門書を読み漁ったなどの記憶もほぼありません。大学入試は幾つかの大学と学部を受験した結果、高校の模擬試験で判定された偏差値どおりの結果となりました。筒井康隆(先生)の小説の影響で「精神分析学」などは結構その気になったけど、その後に心理学を目指すこともなかったし・・・。


大人になってから「〇〇大学卒業ですか、優秀なんですね」と人に言われたときに、心の中にふと湧き出る感覚が一種の優越感らしいものであるのは、恥ずかしながら認めざるを得ないところです。しかしその「優越」というものにはほぼ根拠はなく、偏差値のレベルで見ればもっともっと上のレベルがあるのだし、もちろん下のレベルもあるけれど、だから何なんだ・・・という思いでいるのです。「〇〇大学に合格した」・・・それが一体何なのか???


さてその偏差値レベルで一つの頂点にあるのが「東大」です。「彼女は頭が悪いから」のドラマの中心にあるものはその東大生の「超」がつく優越意識がもたらす様々な悲劇なのです。その悲劇(被害者にとっても加害者にとっても)から感じるのは科学技術がどんなに進歩しても、社会の近代化をどんなに推進しようとしても、絶対に無くならないと思われる「差別」の問題です。
ヘイトクライム、セクハラ・パワハラモラハラ等々各種のハラスメント、選民思想、男尊女卑、などなど嫌な出来事は後を絶たず。そういうことから発生する悲劇は決して無くなりそうにありません。
優越意識があるところには必ずその逆反応のように劣等意識も存在し、そこに差別と被差別が生まれます。「人類皆兄弟!」というにはほど遠い状況が世界中で起きています。実に人間は情けない生き物です。「差別を許すな、差別を一掃しよう」と思う人は少なくないけれど実現はありえない、なので、差別に苦しむ人を救う手段を用意しておく方が現実的かと思うのです。


さて、話しは飛んで私の大学生時代、たまたま仲良しだった中高同級生4人で新宿のパブで飲んだ時のこと。その4人のうち私を含めて3人が慶應で、もう一人のI君が東大法学部生でした。そのパブはカウンター越しに若い女性と話したりできる店であったのですが、彼女から皆さんどちらの学生さんなの?と聞かれが。その時僕ら3人は慶應ですと答え、東大生のI君はどうした訳か「少し恥ずかしそうな口ぶりで」東大です、と答えたものでした。あの時のなんというか「普通なら自慢しても良いのに何故か恥ずかし気に」答えるI君の信条を一度も確かめたことが無いけれど、あの出来事は強く印象に残っています。
件の小説「彼女は頭が悪いから」の中では鼻持ちならぬ東大生がどこの学校かと問われると「一応、東大ですけど」と答える場面があり、この「一応」ともったい付ける言いぐさが、なんとも言い難い違和感をもたらします。


私が考える「頭が悪い」の定義は、他人の話を聞けない、人の気持ちを想像できない、自分を相対化できない、人との物理的・心理的距離感を保てない、周囲の状況を見極めない、自分の言動がもたらす可能性を想像しない・・・・そういう人を私は「あったま悪い!!」と心の中で非難します。一人きりでいるときに何をしようと構わないが、一歩でも社会に出た時には、他人との関係においてキチンと常識、良識を保って応対すべき。思いやりとか他者への配慮、それができないやつは、馬鹿か!と思うのです。
しかし考えてみれば、そういう方々も実は何かやむを得ない事情を抱えている可能性もあるわけで、そんな事情を鑑みずに「あったま悪っ!」と言い放つ私は、もっと頭が悪いのかも知れません。なんだかよくわからなくなった・・・。