独立FPの独白ブログ

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戦後70年~節目の年初め

この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。

これは戦後70年となる節目の1年である2015年の年頭に、天皇陛下が表わされたお言葉からの引用です。日本が行った先の戦争の検証を通して、日本の未来を考えようとのとても深く重いお言葉であると感じます。そしてこのお言葉の前に、大きな自然災害が頻発していることに関連して、次のようにも語られました。

昨今の状況を思う時,それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ,地域を守っていくことが,いかに重要かということを感じています

私は、このお言葉を述べられた天皇陛下こそが、この国の為政者や統治機構の上層部の人々の中で、最も純粋に心の底から国民の幸福を願っている方であると思っています。このような心根は、自らの食いぶちと権勢欲の充足と老後の安定と一族の繁栄を確保するための「手段」として、政治家業をやっている類のオッサン連中の頭の中には殆ど存在しないのではないだろうかと想像しています。(例示すること自体が不敬でした・・)


ところで、昨年11月に急逝された菅原文太さんが一月ほど前に沖縄で演説した際の最も印象的な部分の引用は次の通りです。

政治の役割はふたつあります。ひとつは国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もうひとつは、これがもっとも大事です、絶対に戦争をしないこと…

残されたその時の映像からは、晩年の少なくない時間を社会的活動に費やした文太さんの強い想いが伝わります。


以上の言葉は国家、政治とは、国民を守るための仕組みであると言っているように思えます。一見当たり前のようにも思えるこの表現は、果たして本当に正しいでしょうか? あくまでも国家は国民を守る存在だ・・・しかし一方、国民は国家の安定のために寄与すべきだという言い方もあり、それも正しいように思われます。


国家の安定無くして国民の平和は無い、しかしいったい国民一人一人の幸せが先なのか、国家の安定が先なのか。現実では時に国家は、国民を守るために戦争を始めることがあるし、国民全体を守るために一部の国民に犠牲を強いることがある。守るべきは国民一人一人の暮らしと安全だが、国民全体のために犠牲にならざるを得ない個は間違いなく存在するだろう。そのことはあってはならないことなのか? 何処までが許されるのか? 云々。


戦争と平和、自由と正義、個人と集団、情動と理性・・・考え出せばなんともキリがありませんが、この迷路から抜け出す手段は多分ないようであり、この迷路の中であれやこれやと考えをめぐらすことが「哲学すること」の出発点なのかも知れません。昔私が「完全無欠のノンポリ」だったころ、哲学というものは何か非常に文学的な、詩的な、空想の世界をさまようこと、あるいは論理と論理のせめぎ合いを楽しむ一種のゲームのようなものかと思いこんでいました。
しかし、現実社会の色々な矛盾やら不条理を知るにつけ、どうすれば幸福な人生を歩めるか、いつになれば人間は争いをやめるのか、などと考えれば考えるほど、ああきっとこれは哲学の問題なんだろう、と思うようになりました。


日本では仕事関係などでの会話では「政治と宗教の話はご法度」という【常識】があるということには異論は少ないと思われます。しかし、政治とか宗教とか思想信条などを抜きにしては、本当の会話は成り立たない、と言う方が正しいと今の私は思っています。
日本人の得意技である「面倒なことは忘れたフリ」という態度は「取りあえず皆で経済成長しようね!」の右肩上がり一直線時代には通用したのでしょうが、もはや先の見えない混迷する時代の日本ではそうは行かないでしょう。


今の日本の大きな構造を圧倒的な影響力で形作っているはずの「あの戦争」について、終戦後(敗戦)70年のこの年に皆で語り合わないことには、いつまでもいつまでも、「思考停止民族」であり続けることになると思うのです。政治、哲学、自由と民主主義、宗教やら経済思想やらの色々な分からないことを、今年も多くの人と語り合ってお酒を飲みたいと思っております。


ということで、年初めのお奨め第一弾は《戦後日本の核心》という副題のついたこの本に致します。私自身は日本の様々な不思議についてかなりの納得を得られて、著者には大変感謝しています。「永続敗戦論」 (日本は今も敗戦の最中にある・・・)
「とても悲しいけれどある意味でスッキリ合点が行く」日本の構造を読み解く書物であります。