独立FPの独白ブログ

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「みんなの世界」は議論から

今朝のテレビ番組で国の事業仕訳を取り上げたコーナーがあり、司会者いわく「攻める方も守る方も同じ民主党なのですから、これはおかしなことですねえ」とサラリと言っていました。
一瞬うなずきそうになった私ですが、この人の言っていることは全くおかしな言い草と気がつきました。(ああ気づいて良かった)


「同じ政党の政治家ならみんなの意見は同じはず」などということは全くの間違いだと思いますが、この勘違いは実は日本人特有の同質性重視傾向がもたらす一種の国民のくせが原因なのではないでしょうか。


「とにかくみんな仲良く」「あまり目立たぬように」「場の空気を乱さぬように」という対人感覚ばかりを幼いころから叩き込まれて来た人が、日本人にはけっこう多いのではないか。
その結果として、「議論する」という習慣がほとんどない大人が大勢を占めているのではないかと思いついたのです。


《意見を戦わす》=《ケンカする》と感じてしまう人が多いのではないか。
何かの集まりでちょっとした意見の食い違いがあっただけでも「同意できないなら出てゆけば?」と思ってしまうことが多いのではないか?
そういう感覚で、同意見の人だけが集まることが果たして正しいでしょうか?


大臣が官僚に懐柔されているかどうかの話はちょっと置いておきますが、ある官庁のトップである大臣が国民代表の政治家と相対している場合に、その官庁の立場を擁護する傾向があるのはごく当たり前のことでしょう。
それぞれの立場の事情を説明し合い、それぞれの考えを主張し、食い違う点を明らかにしつつもなんとか妥協点を見出そうとすること、それを「議論」というのでしょう。
「廃止してね」、「はい分かりました」などと話が進む方がむしろアヤシイではないですか?


「人様に迷惑をかける人間にだけはなるな」という教えは一見まっとうに思えますが、このことばかり身についてしまうと、極端な話、何も言わない何もしないのが一番という妙な社会になるんではないでしょうか。
「人様の役に立てるような人間になろう」という思いをもって育たなければ、善き人生を体験することはできないのではないでしょうか。


では、役に立つとはどういうことか、善き人生、善き行ないとは何か、答えは簡単には見出せないでしょう。
そういうことについて誰かか決めてくれて、僕らはそれに従えばよい、というのではなく、そういう難問について皆で議論し合うこと、これが重要。
混迷の時代を生きつつある日本人に、そう思う人が増えているのではないかと思います。


日本人は長い時間かけて、ようやく近代の市民としての自覚を持ち始めている、何度も登場しますが「これからの正義の話をしよう」が売れている背景には「日本人の目覚め」があるのだと信じたいのです。