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独立FPの独白ブログ

この世界を少しでも美しい姿で後世に引き継ぎたい!

個人と社会の渇いた関係?

日常

先週のある日の昼下がり都心へ向かう地下鉄東西線の車内、私の真向かいに座っている20代半ばくらいの青年がPS2でゲームに興じていました。内容は分からないが、あるタイミングで必死にボタンを連打すべき場面になったのでしょう。淡々とした無表情の顔に少しだけ力んだ様子が浮かび、とにかくそのボタン連打の音は車内全体に響き渡るほどです。
「カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ・・・・・」


うたたねしていた右隣の女性がさすがに目を開けて隣を確認、イアホンを着けて携帯の画面に見入っていた左隣の男性も、更にその隣のおじさんも、その隣のお父さんも、みんなそれぞれにカチャカチャの音源を確認しておりました。
このカチャカチャの音源は無邪気な小学生なのではなく20代の青年、見た目だけは完全な大人です。こういうのって最近は日常茶飯事なのでしょうか? 


この男の頭の中の辞書には「公共の場」とか「社会性」とか「マナー」という言葉は載っていないのは明らかですが、更に、羞恥心という感性の持ち合わせはないのだろうか。この自分には絶対にあり得ない行動、態度に遭遇した場合の違和感は「恐怖」に近いものがありますね。


その後、私の興味は周りの人たちの気持ちはどんなものなんだろうということに向かいました。おそらく「迷惑な野郎だ」と感じてはいるのでしょうが、それほど強く怒りを感じているようでもないような、あるいはあまりに日常的な光景なので慣れているような、または、こういう状況について気にすること自体が不快なので気にしないようにしているというか・・・・・。


そもそも他人との共存、異なる感性同士の摩擦が必然である社会というものは、こういう問題がてんこ盛りなのであって、人々は色々なことを我慢しながら生活しているわけです。なにもこのカチャカチャ音源の青年が特別な迷惑人間というほどでもない。
電車内で堂々と携帯で商談をしているオッサンも、家でしてこなかった化粧の仕上げをするネエチャンも、きっちりお食事するネエチャン、ニイチャン、オバハンも数知れずいるわけだし・・・・。


他人の気持ちを慮ることができない人間の増加は、人間同士の感覚の結びつきが希薄になって、生きづらく感じる人が増えていることと同時進行なのだろうなあ。
なんて思っていたら、カチャカチャ青年は竹橋駅で降りて行きました。そのあと、車内は不思議なほどの静寂に包まれたのでした・・・。