独立FPの独白ブログ

この世界を少しでも美しい姿で後世に引き継ぎたい!

■格差社会なんて今更ねえ…


私が脱サラ転身して入り込んだ生保営業の世界は弱肉強食の超格差社会でした。
コミッションセールス(フルコミ)とか、完全歩合給制、実力給など色々言い方はありますが、要は自分で稼いだ分しか貰えないということですね。年収1億円近くのひと(ひょっとすると超えていたかも)もいれば、会社が最低賃金法に抵触する恐れもありそうな100万円台の人もいる世界でありました。


さて実力主義というといかにも正当無比、理に適っていて、批判の余地も無い正義の制度のように感じてしまいがちですが、本当に正当でしょうか。
新自由主義的言説を盛んに唱える人達が口を揃えて言うせりふに「結果の平等は実は不平等であり、努力したものが報われる正しい平等は”機会の平等”なのである」というのがあります。さあ、この機会の平等というのが実はクセモノであります。


競争原則によって勝利を得たものは勝利の結果としてある一定の地位を得ます。その地位を上手く活用することで、その地位に到達し得ないものには到底不可能な手段を用いて更に力をもって市場に出て行きます。その一定の地位とは、例えば消費財メーカーなどであれば、会社或いは商品の圧倒的な知名度であったり、高額な宣伝費を使える力であったり、小売店が優先的に販売に力を入れること、であったりします。(そこで独占禁止法などという法律ができています)


私の前身(旧)外資系生保営業マンの世界でもそうした力を発揮する人がいたものです。
例えば、実力給のバリエーションとして、沢山稼いだ営業マンがその功績に準じて手にすることになるボーナスがあります。前年度の稼ぎ高に応じて、ボーナスの率が決められて、翌年の新契約販売手数料にその率を賭けたものが受け取れる仕組みです。前年にトップレベルの稼ぎだった人は翌年度のボーナスの率が80%などとなって、翌年の新規獲得の収入は自動的に1.8倍となるわけです。
(ちなみに私自身の最高のボーナス率は確か50%だったと記憶しています)


80%のボーナス率を確保した実力者はひとつの武器をもつことになります。例えば彼は法人の大口契約獲得のために、その法人の税務を取り仕切っている税理士さんに接近。その税理士に自分の勧める法人保険の合理性や優位性をアピールし、成約時には多額のお礼を払うと約束します。普通の営業マンならとても払えないような高額の謝礼を約束された税理士さんは、プランも悪く無さそうだし・・・と法人の社長を説得します。


高額ボーナス営業マン氏は高額の謝礼を出しても、80%もボーナスが上乗せされるから大丈夫、他の保険営業マンにマネのできない高額謝礼を武器に税理士マーケットで展開するといったようなやり方です。今では保険契約に絡んで謝礼を払うことは(社会通念上のお礼程度、ノベルティ程度を超える場合)法律で禁止されていますが、そのころは、こういう手法で業績を挙げているトップクラスの営業マンがいるというウワサが絶える事はありませんでした。今でもやってるかもしれませんが、独立した今ではウワサを聞くこともありません。


このやり方を違法でなければ妥当と考えるか、本来の顧客指向に反すると考えるか、このあたりは微妙で、いいとも悪いともいえないのが現実でしょう。私はこういうのははっきりと嫌悪しますし、どちらかといえば憎悪していますが、これは好みの問題です。


さて、こういう実力主義や競争原理というやり方の中に潜んでいると思われる、実は機会平等ではないという事実は、市場原理主義を徹底させようとする場合にどうしても解決すべき問題として出てくるはずなのですが、そういう議論をあまり聞くことはありません。
競争原理で努力が報われる社会が正しいが、負けたものにも再挑戦のための支援を行うことで、やり直しの可能な明るい美しい日本を作るのだ、などととりあえず負けたことなど皆無のエリートボンボン出身の相続政治家さんからのたまわれても、大した実力も無いのに実力の世界に脚を踏み入れてしまった私としては、白けるばかりなのです。
「貧乏でも心さえ豊かなら幸せなんだよ」なんて台詞を金持ちに語りかけられているような心境ですねえ。


市場原理のもとでの勝者達は、その財力を背景に政治の世界、官僚の世界に影響力をもつようになり、様々な活動を通じて市場ルールを自社に有利になるように変更したり、不正経理などを見逃してもらえるように画策したり、政治の中枢に情報網をもつことで得られる情報を活用してインサーダー取引的な儲けを独占したりする、そういう力を持ちうるのです。
現にそういうやり方で自社への利益誘導を日々行っている経営者が沢山存在するのは誰もが知るところですね。また、そういうことをできない人物では、そもそも大企業の経営者にはなれないのかも知れません。


なあにが機会の平等なものですか。こんなものは飢え死にする国民を尻目に一部のエリート集団のみがのうのうと生き残る共産主義独裁国家と本質的に変わらないではありませんか。
そういうことをちゃんと意識した上で政治、行政、産業、マスコミの動きを見たり聞いたり話したりしなければイケませんです。靖国賛成だの改革賛成だの表面の言葉に躍らせれて右往左往している場合ではありません。
貧乏になって苦しむのも戦争に行って死ぬのも悪いことしないのに捕まるのも、結局は平等な機会しか与えられない庶民なのですから。ポピュリズムで傷つくのはいつも必ず庶民です。
ううむ、どうもこういう話は長くなってイケません。