独立FPの独白ブログ

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親の介護体験記(1:病院への付き添い)

私の両親はともに大正生まれで、都区内の住宅街で二人で暮らしていました。年齢相応に父は耳が遠くなり、母は記憶力がだいぶ弱くなっていましたが、大病で長期入院をすることもなく過ごしていました。週に一度のかかりつけ医の診察にも、ほぼ毎日のスーパーでの買い物にも必ず二人で歩いて通い、スーパーや薬局などには顔が知られた評判の仲良し老夫婦でありました。かかりつけ医の先生も、その年齢でお二人共まずまずお元気なご夫婦は、この地区で2組くらいしかいませんよと言っていたほどです。そんな二人の穏やかな暮らしにも、歳を追うごとに少しづつ崩壊の危機が迫りつつあったのですが、本人達はもとより息子の私がそれを認識するには相当の時間を要しました。

介護の仕事をしているため高齢者の現実をよく知る妻の勧めもあって、以前より以上に親の生活に関りを持つようになったのは10年ほど前からでした。以来、この数年間にはFPとしての介護保険制度の知識を超越し、高齢者に関わる様々な事柄について、身をもって体験学習をすることになったのです。世の中に経験してみないと分からないことは多いですが「親の介護問題」もそのひとつと痛感することになった出来事について書き留めておこうと思うのです。

◆病院への付き添い
特に重い病気もなく過ごしていた母でしたが、8年前に大腸がんが見つかりました。ごく初期の状態であって(ステージⅠ)開腹ではなく腹腔鏡手術での治療で済んだこと、転移もなくその後の体況も問題なく過ごせたのは、毎年の定期健康診断を夫婦で欠かさず受け、異常があると精密検査も受けるという父の几帳面で慎重な性格の賜物でした。
国立がんセンターで50日ほど待って腹腔鏡手術を受けた母が入院10日程で退院して、その後全く問題なく過ごすことが出来たのは、父の功績大と言うべきでしょう。
しかしそのがん発見から退院に至る二ヶ月ほどで、私は老親二人の「老いの問題」について色々と認識することになりました。思えばこの時から私の「親の介護」が始まったと言えそうです。

母のがん治療は築地の国立ガンセンターで、数回の通院と入院中のお見舞いにはほとんど私の運転する車で往復していました。しかしさすがに毎日同行するのは無理ですから、ある日、父がひとりで見舞いに行ったのです。後で分かったのですが電車の乗り継ぎにかなり苦労し、特に大江戸線に乗り換える際の移動距離には参ったようでした。仕事を辞めてからの父の外出は、ほとんどが近隣のスーパーやと内科医への行き来と、床屋さんに行く程度になっていました。月に一度くらいは井の頭線で吉祥寺へ出向いて食事や買い物をしていたようですが、さすがに私鉄、都営地下鉄を乗り継いて都心までの3時間くらいの往復はもう不可能になっていたのでした。父が一人で見舞いに行ったのは、その一度きりでした。

また、担当医師から告げられる病状、治療方法、今後の課題などなどについて、父が完全に理解するのは相当困難な様子でした。耳が遠くなっていることもありますが、医師の説明する内容の理解や、通院の予約のこととか、清算のこととか、治療の選択などについて理解し判断するための情報力は、現役世代と比べて圧倒的に少ないという問題があると分かったのです。
その時以来、母や父の診察、通院などには頻繁に同席せざるを得なくなったのでした。どちらかといえば教養のある方だと思っていた父ですが、高齢による情報不足は否めないのが現実だったようです。母の方はというと、お父さんに任せているから私は何にもわからない、の一点張りでした。

そうした現実を知った私は、母が退院して以降、地元の内科医に時々同行するようになり、時々通院する眼科医や歯科医にも同行する機会が増えてゆきました。一般にお医者さんは診察の結果や注意事項を書面にすることはなく(PC画面に顔を向けつつ)口頭で説明するだけです。耳が遠いので聞き取りづらく、聞こえたとしてもその内容はすぐに忘れてしまいますから、多くの場合に私が同行するしかなくなってきたのです

病院への付き添いは楽ではありません。どこに行っても長時間待たされるのが当たり前。その混雑ぶりにも慣れて文庫本を持参したりするのですが、待合席で横に座る母が「まだかしら、随分待たせるね、順番間違ってないの、まだ呼ばれてないかな、保険証は出したの?」などと同じことを何度も何度も何度も繰り返すので読書には集中できず、仕方のないこと分かっていてもこちらもイライラが募るのです。「子供か!!」と言いたくなるのですが、実際「ある意味で子供」なのですからどうしようもないことなのです。病院付き添い時のストレスで健康を害する確率は低くはないと思います。
(続く・・・)