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独立FPの独白ブログ

この世界を少しでも美しい姿で後世に引き継ぎたい!

宗教の本当の意義

ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は15日、フランスの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が襲撃された事件に関連して、表現の自由には限度があると語った。(CNN)

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日本人の大多数が無宗教(或いは宗教に無関心)だという説が一般的ですが、実際の日本人は広い意味で日常的に宗教と関わっています。困った時には「神頼み」をするし、可愛い赤ちゃんを「天使」のようだと言うし、親しい人が亡くなると「天国」に行ったと感じるし、極悪非道に対しては「地獄」へ堕ちろと罵ったりします。
特定の宗教を心から信じ、深く追求し、日々の生活の精神的基礎としている日本人は比較的少数ではあるでしょうが、日本人が決して「信仰心が無い」訳ではないと思います。(単にお祭り好きなだけ、という見方も否定しがたいですが・・)


私自身は神仏混合の習慣に何も違和感を感じることなく、初詣やら厄払いやらに限らず、日頃の散歩ついでに「地元の氏神様」だと思っている谷保天満宮にお参りしています。また、出張などの旅先で時間が空けば古いお寺を訪ねてはご本尊に手を合わせてみたりしています。そういう行為をする際にはまことに心安らかになるような気がしますし、そうした時間は大切にしたいものであります。


世界に目を転じると、宗教を語った戦争やテロリズムが常時どこかで起きていて、人殺しのきっかけになっており、いったい宗教は何のためにあるのかと、宗教家を問い詰めたくなったりする今日この頃です。冒頭のローマ法王の発言をニュースで知った時、これこそが宗教家の発すべき言葉なんだろうなあと私には思えました。


「9.11の多発テロ以降、アメリカが取った反イスラムの姿勢を非難していたフランス人が、自国でテロが発生した途端に同じように感情的に吹きあがった」と、ある有名な社会学者が残念だと語りましたが、その通りと私も思います。
殴られたら殴り返せ、ではなく、右のほほをぶたれたら左のほほを差し出す、のではなかったのでしょうか?


フランスには「人民が絶対権力から苦労して自由を勝ち取った」という歴史的精神性が根強いので、表現の自由は絶対に譲れないのだという解説を耳にしましたが、しかしそれでは「平等」「博愛」はどうしたのでしょうか。
表現の自由」を守り通すと宣言して再度イスラム教風刺を掲載して増発したこの出版社は、結果的に人種差別と異文化への違和感を炙りだし、憎悪を増幅して社会の分断を引き起こし、そして強烈な勢いで売り上げを伸ばした。これでいいのでしょうか? 


宗教心の薄い私にはどうしたら良いのかさっぱり分かりませんが、ひとつだけ、「成功の黄金法則」というのを思い出したので記しておきます。

「他人には、自分がして欲しいと思うようなことをしてあげなさい」
同時に
「他人には、自分がして欲しくないと思うことをするな」
です。
ただし、この言葉には欠陥があります。「誰かに殺して欲しいと本気で思っている人間」の場合には困ったことになるのです。人間は困った存在です。