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独立FPの独白ブログ

この世界を少しでも美しい姿で後世に引き継ぎたい!

東京五輪はまた一歩遠のいた

信条・意見 世の中

JOC異例の英文声明、世界へ 柔道の暴力問題受け
 柔道女子日本代表の暴力問題で、日本オリンピック委員会(JOC)は1日、「非常に残念だ。スポーツにおいて暴力はあってはならず、五輪運動の価値に反する」などとする暴力撲滅を目指す英文の声明を世界の主要メディアに向けて発表した。 (2月3日 スポーツニッポン)

女子柔道の日本代表選手を含む15名が署名入りで監督の暴力を告発をしたということで、多くの人が「これは余程のことだったろう」と感じたことでしょう。
《厳しい練習に耐え、厳正な規律を守って日々の鍛錬を怠らず頑張っている選手たちが、我慢の限界を超えたのだろうから、これは余程のことであろう。》


武道の世界とは無縁の私ですが、中学高校時代にそれなりにスポーツ系の部活動をしていた経験から思うことがあります。それは「昔は、なんて非科学的なトレーニングが横行していたことか」ということです。
練習中には水を飲まないとか、やたらとやらされた階段でのウサギ跳びとか、なんだかよく分からない根性論的な練習の意味についての疑念です。
スポーツの世界に科学が幅を効かせるようになったのはまだ最近のことなのかも知れませんね。


スポーツの起源には諸説あるようですが、たとえば民衆の不平不満のガス抜き対策だったり、労働をしない貴族階級の暇つぶしや体力づくりだったり、いずれにしても「根性論」みたいな精神性がが入り込む余地はなかったようです。
精神論らしきものがあるとすればルールを厳守しようというフェアプレイ精神くらいのものであって、それも、ルールを守らねばゲームが成り立たないからという合理性から来たものでしょう。


しかし、日本ではどうやら事情は少々違うようです。戦時中の学校の体育は多分に軍事教練の予備段階的な意味合いがあったそうで、日本の体育、スポーツの世界にはなんとなくその頃の「軍隊式」的要素がいまだ残っているのではないかと疑いたくなります。
所謂「体育会系」の世界に身を置いた経験がないので実際のところはよくわかりませんが。


高校部活動の顧問の体罰事件(というようり暴力行為)が日本全国に飛び火して、またいつものように「一種の流行り」になっていしまっている今日この頃。しばらくの間は「体罰問題」がマスコミの画面紙面を埋め続けるのでしょう。


ところで私は息子に平手打ちをしたことが一度だけあります。それは彼が小学校高学年のころ、成人であれば「ちょっとした悪戯」ではすまないような行為が発覚した時でした。ここはちょいと思い知さねばならぬと覚悟して、正座をさせてこちらも正座をし、目をしっかりと見据えながら「パチン」と一回張りました。そして、直後に30分ほど二人だけで話をしたものでした。
あのときの私の「体罰」は多分間違いではなかったと今も思っていますが、その感覚、感触はやはり苦みをともなったものとして私の中で残っています。
たった一回ほほを張っただけですが彼にとって恐らくは滅多にないこととして明確に記憶に残っていることでしょうし、私にとっても非常に重い出来事としての苦い記憶なのです。私はその後、叩いたりすることは一切なくなりました。


たった一度の張り手でもこんなに大変な行為なのに、それを2回3回4回ではすまず、何回も何十回も叩いたり殴ったりする、こんな行為はどう考えても正常な精神状態でできることではないはずです。一種の狂気だとしか思えません。
人の心や身体を傷つける行為は、言葉であれなんであれ、特に繰り返される場合は単純に暴力行為です。「いじめ」とか「体罰」とかの曖昧な言葉ではなくはっきりと暴力行為と正確に表現すべきです。


そんな暴力行為を何度も平気で行った人間を庇い、事件を封じ込めようとした柔道連盟のトップのおっさんたちの顔を見て、数年前の大相撲の不祥事を思い出して大変不愉快になったのでした。スポーツに限らず、経済界も、政界も、官僚も、報道の世界も「組織は頭から腐る」のでしょう。