独立FPの独白ブログ

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「言葉の軽さ」問題について

政治家の「言葉の軽さ」があちらこちらで言及されるようになって久しい。というよりも、いつまでたってもその状況が変わる様相は見えず、むしろどんどん、ドンドン軽くなり続けているように思います。我が首相は最近「辞めるなんてひとことも言ってない」と仰ったらしいし??


「言葉が軽い」ということは普通の感性では「発言を信用できない」ということに直結しそうなものですが、日本の社会ではどうも少し違うような気がします。
もともと日本には「言葉なしでも信用する関係」というものがあり、「俺の目を見ろ、何にも言うな」と言う演歌(兄弟仁義)の歌詞が示すように、古き良き日本の伝統みたいなものでもあります。


しかしそういう日本的伝統的な人間関係、心のあり方は、その本質が忘れ去られ、都合の良い面ばかりが乱用悪用され続けて、ついには信頼関係が崩壊してしまったというのが、悲しくも今の日本の姿ではないでしょうか。


人間同士の信頼関係はお互いの努力の上に初めて成り立つという根本姿勢であれば、常に相手の心に気配りし、言葉を選び、自分の思いを正しく伝えようと工夫し努力するしかないでしょう。
しかし「権威」とか「伝統」とか「習慣」とかの既存の仕組みに依存することに慣れ過ぎてしまえば、その仕組みを無批判に受け入れて、その中でうまく泳ぎまわって生きるのが日常となってしまう。


そしていつの間にか、相手の心を慮り、懸命に言葉を駆使して関係を構築する努力をしなくなる。そういう流れの一つの帰結が、今の日本の問題に直結しているように思います。
国がやっているのだから安心とか、お固い銀行マンが言うから大丈夫だろう、などと考える人がいまだにいるらしい事実。 歴史も知らず、文化的価値も分からぬままに買いあさるブランド指向。有名人が宣伝すればすぐにマルチ商法にものめり込む人たち。テレビ新聞情報をマル飲みする情報リテラシイ不足の国民・・・・・。


「原子力発電は安全なのだ」これを懸命に説明しようとしていた時代もおそらくあったのだろうと思います。(アトムもウランもコバルトも大好きだったあの頃ではないだろうか?)
しかし、カネと権益の分配を通じ原発推進で結束する集団をどんどん拡大させていった結果、反論を封じ込め、異論を無いものとし、徐々に説明の努力を必要としなくなってしまった。
結局、何も説明できないような人たちばかりになってしまったのではないでしょうかねえ。なんだか人間って悲しいです。


復興大臣をスピード辞任した松本ドラゴン氏は「上から目線の発言」が災いしたというけれど、私はあの人の普段思っていることが疲労とストレスの影響でつい口に出てしまっただけではないかと想像しています。あんなこと言わずに黙っていれば、その姿勢は表に出ず、分からぬままにあの体勢が継続していたかもしれないですから、本当は「言葉は重い」のでしょう。


ところで私も「福岡生れ」「B型」なんですけど・・・なんでああいう余計なこと言うのかね、いい歳して、やっぱり軽い!!