独立FPの独白ブログ

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みんなで裁けばコワくない?

その昔、犯罪人はその属する社会の独自の慣習によって処罰されていました。
「犯罪の定義」も「処罰の軽重判定」も「処罰の実行手段」もすべてはその時々の権力者(酋長とか村長とか国王とか)の思惑ひとつに左右されていたのでしょう。そのため、権力者の気に入らない人物やその社会集団にとって都合の悪い人物は簡単に犯罪人に仕立て上げられて処刑されてしまうということが頻繁に行われていたに違いないのです。


また、犯罪抑止効果を高めて社会秩序を維持すべく、さらに権力を誇示する意味も含めて、犯罪者の処罰を庶民に知らしめることが積極的に行われました。江戸時代の【市中引き回しのうえ獄門晒し首】などはその分かりやすい実例ですね。


近代国家では犯罪人の処分は(一応)民主的に制定された法律に基づいて、公開された裁判によって合理的に行われることになりました。
【なにびとも法律の定める手続によらなければ、その生命もしくは自由を奪われ、またはその他の刑罰を科せられない。】
という<憲法第31条>の規定には「疑わしきは罰せず」の推定無罪の基本原則が含まれているといわれます。
この基本理念によって「何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」という立証責任の考え方に基づいて刑事事件は裁判されることになっています。


ところがこの推定無罪の原則は、実際には有名無実化されているのが実態です。


先般アメリカで自殺したM元社長というひとの「ロス疑惑」や、和歌山砒素カレー殺人事件の被告人たちは、有罪と宣告されるよりもはるか前の段階で「実質的に有罪宣告」され、さらには「実質的に社会的に処刑されていた」のは明白です。
マスコミのイイ加減な推測報道にも容易に影響を受けてしまう庶民の感情的反応によって、そして意味不明な「世論なるもの」の蔓延によって、上記の刑法の大原則とは正反対の「疑わしきは実質有罪」となってしまっているのが現実ではないかと思います。


マスコミ報道や風説、場合によってはそれを示威的に利用する検察側の情報操作によって、近代以前のような「あいつをやっちまえ!」という野蛮なリンチに近い行為が実際には行われている、というのが日本の実情ではないかと私は思います。
こんな社会背景の中でとうとうスタートしてしまった裁判員制度です。


ニュース報道では「人を裁くことの怖さ」とか「責任の重さ」を口にする市民の発言が盛んに報道されていますが、私が強く感じることは「この状況の日本で裁かれる側になった時の恐怖」です。わけの分からぬ偏見の持ち主や、差別主義者や、権威主義偏重者、自意識過剰な人物や、見た目だけに左右されるウスッペラな人や、変質的嗜好の人物などが裁判員の中に複数含まれる可能性について、非常につよい恐怖を覚えます。「あ、コイツ、やたら生意気そう! 絶対有罪!」なんて思われるのではないかと・・・


ただし、現在司法の世界にいる所謂専門家の人たちにはこうした偏見や差別思考などが無いとも言い切れませし、どちらかというと一般社会以上に偏見に満ちた世界である可能性すら感じますので、結局は「どっちもどっち」という考え方になってしまうのです。
いづれにしても、裁判員をやらされることになった場合の不都合よりも、自分自身が冤罪の被害者になってしまうことへの恐怖感のほうが格段に大きいです。そうしたことを考えると、移ろいやすく付和雷同しやすいように見えるわが国民によって間違って裁いてしまうかも知れない、これから始まる集団処刑には加担したくないと強く思うのですが、これは私のわがままというものなのでしょうか。