独立FPの独白ブログ

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自分で考えるための読書(10)新しい共産主義?

ネオ共産主義論 (光文社新書)

ネオ共産主義論 (光文社新書)


右翼思想と左翼思想の垣根はどこにあるのか。この歳になるまでこの疑問に自ら答えが見出せませんでした。
右翼といえば大音量で軍艦マーチを放ちつつ走る街宣車、左翼と言えばあさま山荘事件やよど号事件くらいしか思い浮かばないほど何も知らない私でした。


そんな調子で中年になるまでノンポリを通してきた私ですが、この数年は戦後の思想や経済についての本(ほとんど入門レベルの新書ばかりですが)を少しづつながら読むようになり、その結果、実はこの疑問があまり意味が無いということに気付くようになりました。
ある時代のある体制の中では完全に「左」であった考え方が、次の時代では「右」となっていることもよくあるのであって「右へ右へとどんどん進んでいったら、ぐるっと回って左に来ていた」というようなことさえあるらしいのですから。


いつまでも無くならない戦争や地域紛争や民族対立と同時進行で、我々の唯一の生息場所である地球自体がどんどん壊れて行きます。争っている場合ではないと分かっていながらも、資源の奪い合いは無くならず、穏便で平等な富の配分の仕組みはなかなか確立できません。


すべての人類が安全で平等な環境を手にいれ、なんとか平和な世界の実現に向かってゆきたいと望む気持ちは同じであったとしても、その方法論には様々な考え方があり、人々が共に生きてゆくための基本的なルールや仕組みにも色々な形、方法論があります。


生まれたときから一応は自由の中で生きることが出来、学生運動などの経験も無いノンポリ青春時代を過ごした我々の頭の中は、特に突っ込んだ勉強をしない限りにおいては「共産主義は誤りである」「社会主義は失敗した」という刷り込みをなんとなく受けてしまっています。
共産主義と聞けば旧ソ連や中国のような自由が極度に制限された独裁政権の国の体制であるらしい、ということくらいしか思い起こせないということは、われわれにとって不幸なことのような気もします。


共産主義を駆逐して資本主義が世界全体を覆いつくすことで、全人類が平和に暮らせるようになるというようなことを、無批判に信じていることも実は大変に不幸なことなのでは無いでしょうか。かつて東欧諸国が共産主義こそ理想、資本主義は邪悪の思想と幼少期から洗脳されていたのと同様に、所謂自由主義体制側の我々はこっちが正解と洗脳されているのではないでしょうか?


このあたりの基本的素地がないままで、自由主義だの民主主義だの資本主義経済だのと言っているのは、甚だ浅薄、というよりあまりに無思索にすぎるのではないでしょうか。資本主義が当然に正義なのではないし、共産主義が絶対的に悪なのではないはずです。


「資本主義は弱肉強食ではない」と説明できる庶民がいったいどれほどいるでしょうか。そもそも資本主義とはいったい何なのか、市場原理とは、自由主義とは、個人とは社会とは国家とは・・・そのようなことについてある程度の理解の筋道を辿っておくことは、普通の庶民としても必要なのではないででしょうか。


我々がとりあえず身を置き、秩序を守りルールに従おうとしている資本主義社会の意味、本質を知るためにも、共産主義の基本理解は必須科目ではないかと感じた共産主義のガイドブックでありました。



・・・・実はこの記事の元原稿を書いたのは昨年の夏の頃で、なぜだかアップするのを失念していたのです。2008年の秋にアメリカ金融恐慌が発生してからは、「資本主義の崩壊」とか「強欲資本主義の終焉」とかの副題が表紙を飾るような「資本主義批判」の書物が本屋さんに沢山平積みにされています。また、マルクスの「資本論」の解説本なども結構売れているようです。
このような動きをみると、これまたなんとも動きの軽いことと感心してしまいますが、人間社会は「白か黒か」の単純思考では決して解決を見ない複雑怪奇な社会です。
どうも、どちらか一方に皆で引き寄せられやすい傾向がある我ら日本人ですが、資本主義か共産主義か、ということではなく、人間の幸福の実現に向けてどんな仕組みを考えてゆくべきなのか、という観点で国家や経済の体制は語られるべきなのです。