独立FPの独白ブログ

この世界を少しでも美しい姿で後世に引き継ぎたい!

■法律は目的ではない

  • 建設工事などの競争入札制度は現実には有名無実であり談合は常習化していること。
  • 高校での必修科目を実は履修せず、その時間を大学受験勉強のために向けていること。
  • 役所で裏金作りが常時行われていたこと。
  • 会社の営業経費の名目で内輪の宴会の費用を捻出していること。
  • 交通違反を知り合いの議員さんに頼んでもみ消してもらった人がいること。
  • ラーメン屋、牛丼屋でビールを飲むひとには結構車で来ている者がいること。
  • 試験の成績や面接の評価とは無関係に「コネ」で就職が決まるひとが沢山いること。
  • お金で入学できる大学が存在すること。
  • 法律で完全に禁止されているはずの売春が実際には堂々と行われていること。
  • 本当は受けていない職業訓練を名目に「雇用保険の教育訓練給付」でパソコンを購入すること。


数え上げれば、きりがありませんが、これらはすべて違法行為、ルール違反または脱法すれすれの反社会的行為あるいは不正行為です。そして、こうしたことが世間でごく日常的に起きていることを知らないというおとなはまずいないでしょう。みんな知っていて、特に問題にせずに忘れているのですよね。


しかし、これらを絶対にあってはならないことと全否定して、すべての行動を完全に法令順守のもとで行うなどというのは現実にはあり得ないでしょう。そういうわけで、みんながルールを守って暮らしているのだよという「建前」のうえで殆どの人が毎日を送っています。思うに建前は社会生活上必要な文化みたいなものです。あるいはルールに関してのもうひとつの「メタ・ルール」でしょうか。


従来の日本社会にはほとんど根付くことがなかった内部告発という新しい手法によって、また米国のおかげで進行中の様々な法改正、制度改訂、構造改造などによって、談合や不正経理やその他諸々、組織の奥にしまいこまれていた多くの問題が白日のもとにさらされるようになりました。
この流れで不当な利益を得てきた「悪い奴ら」がどんどんと排除されるのは良いことではありますが、果たして本当に悪い奴だけを退治して正しいものを救う方向に向かっているといえるのでしょうか。


すべての事実が誰の目にも分かるようになることとか、全てのことがらが完全にルールによって統制されている状態が本当に人間の幸せな状態なのかどうか。私は大いに疑問を感じています。
あれこれ言い出すと長大な文章になりそうなので、ひとつだけ書いて見ます。


我が家から5分ほど歩いたところにある片側2車線の道路には押しボタン式信号のある横断歩道があります。この歩道を渡ろうとする者がもしも私ひとりしかいないときには、私は信号を換えるためのボタンを押すことはせずに、走行して来るクルマがかなり遠くにいるうちに赤信号のまま横断します。もしたったひとりの横断者である私が法令どおりに信号を青にして渡ったとすると、私が横断したあとの横断歩道のそばにやってきたクルマは、誰ひとり渡ることのない信号で虚しく待たされることになります。そういうことになるのは気の毒だと思うし、不合理だと思うので、私はその信号ではできるだけ信号ボタンを押さずに渡ることにしているのです。


同時にわたる人が数人いる場合、特に高齢者がいる場合などならボタンを押して渡るのは当然の話し(安全のため)ですし、小さな子供(概ね小学生以下かな)が近くにいる場合にも、「見本」を見せる意味合い(安全教育のため)からもボタンを押します。
クルマがほとんどいない早朝5時頃のウオーキングなどの時には多くの人が歩行者の信号は無視して渡っていますが、中にはその状況でもきっちりと青になるのを待つ人がいます。長い直線道路の左右を見渡して全くクルマが見えないのにです。こういう行動を目にすると私はどうにも違和感を感じてしまいます。
私は法律を守らない非常識な無法者なのでしょうか。


法律、規則などのルールというものは、明文化されていない社会ルールである「常識」などと同様に社会をできるだけ生きやすくするための手段なのであり、人間の知恵の結実です。そのルールを守ることが絶対条件という考え方は、その本来の目的に照らしてみれば少し違うと私は思うのです。
ルールを上手に活用すること、時と場合によってルールとの折り合いをつけながら上手に暮らすことが大事なのではないかと思うのです。ああ人間って難しいですねえ。