独立FPの独白ブログ

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■もうひとつの日本

もうひとつの日本は可能だ

もうひとつの日本は可能だ


近いうちに書こうと思っていても、テーマが重たくてなかなか始められないのが市場原理至上主義への反論です。市場原理を隅々まで浸透させることこそ、自由主義国家としての目指すべき理想の道という考え方がひとつの思想として存在することは問題とは思いません。自由主義会に生きていたいと思っている私自身も市場原理主体の世界の中にいます。問題なのは市場原理【至上】主義だと思うのです。


市場原理至上主義を積極的に支持する人達の多くは、基本的に競争に負ける可能性があまり無い階層の人ではないのかと私は思います。小泉さんとか竹中さんとか阿部さんとか、一応エリート家族に育ったエリート人間であって(人品骨柄はともかく身分として)、競争原理の日本社会への浸透がどんどんと進んだとしても、あの人達なら、その競争には決して負けない位置に既に立っているから、堂々と「コレデイイノダ」と言っているだけなんじゃあないのか・・と思うのです。
私自身も、恥かしながらそうした「上位数パーセント」の位置を目指そうと思った時期があったので、こうした感覚を持つことが異常なことでは無いことは理解できるのです。


市場原理主義者の人は、機会の平等ということをよく言いますが、現実の経済社会において、きちんとルールが守られ、信頼できる公平なる審判がいて、純粋なる公正な競争の土俵が確保されていると言えるでしょうか。
力を持つものはその力によってルールを捻じ曲げ、審判を買収し、必要に応じて八百長を仕掛け、違法行為の処分さえも免れることができるようになっています。一体、どこに機会の平等など存在するのでしょう。


戦争を肯定する人達が自分や自分の家族が戦場に行く可能性の低い人達であることと同じで、しょせん、自分が余り困らないから平気なだけで、現実に自分の身に降りかかってみればころりと態度が変わるだろうと想像します。


憲法でもなんでもいいので、「国会において戦争を決断した場合には議員全員が戦地に、しかも前線の戦闘要員として派遣される」ということに決めておきさえすれば、多分戦争はかなり減るはずだと思います。結局はそういうことだと私は思います。
まともな人間の多くが、自分の命を犠牲にしてでも戦うしかないと決断した戦争なら、これはおそらくどうしても避けられない正当防衛の戦争なのだと思えます。


話しがそれましたが、今、日本は多くの国民の信認を得た結果、市場原理至上主義の国としての体制を整えようとしています。その危険性について、バブル期以前から警鐘を鳴らし続けているジャーナリストがいます。内橋克人氏の著作には、本当に大切なことをナントカして多くの人に伝えたいという思いが込められています。


以前に読売テレビ桂文珍司会の日曜朝番組でコメントしていた時から、その誠実な語り口に好感を覚えていましたが、その内橋さんが次ぎに何を書くのか、いつも期待して待っています。
”なんだかんだと言ってもとりあえず改革は良いことだ”と仰る方々にも、とりあえず、これだけは読んでから再考して頂きたいと思うのです。


「もうひとつの日本」をなんとか取り戻したいと熱望する毎日です。